宮田団長ウォーク:“古代甲州道に沿う縄文ロード①


大栗川に面した集落遺跡相


「聖蹟桜ケ丘駅」西口改札を出て右手の広場に10時 集合  ガイドの宮田団長による経路と資料の説明
「聖蹟桜ケ丘駅」西口改札を出て右手の広場に10時 集合 ガイドの宮田団長による経路と資料の説明

 

 

■集 合:京王線「聖蹟桜ケ丘駅」西口改札口右手広場 (10:00)

■解 散:愛宕神社前(一次解散 15:25) / 愛宕四丁目バス停(解散 15:50)

■ガイド:宮田 太郎(団長)

 

【内 容】

諏訪湖や八ヶ岳の縄文人たちと多摩丘陵の縄文人たちが、大栗川に沿う「古代甲州道」や「奥州古街道」に沿って集落遺跡を遺し、深く関わっていたことを考えながら、和田東寺方の段丘の遺跡(多摩第二小学校遺跡)から、縄文時代ロングハウスが見つかった。 和田西遺跡までをたどって探索します。

 

【コース】  

京王線「聖蹟桜ケ丘駅」西口改札を出て右手の広場に 10:00 集合~有山集落跡~東寺方橋~東寺方橋緑地~ぐみがした坂~慈眼山 宝泉院~鎌倉裏街道~多摩市総合体育館・自由昼食(11:20~12:20)

~多摩第二小学校遺跡~並木公園(休憩)~並木橋~殿田橋~和田さく公園~庚申塚古墳~後原通り~稲荷塚古墳と奥州古道~地蔵堂~和田西遺跡~愛宕神社前(一次解散 15:25)~愛宕神社~愛宕社跡(古代~中世の烽火台?)~愛宕四丁目バス停(解散 15:50)~永山駅、聖蹟桜ヶ丘駅、多摩センター駅へ

 

【感  想】

多摩第二小学校遺跡や和田西遺跡は、現地に看板等がないので、団長の説明と資料を見て、縄文時代のすごい遺跡ということが分かりました。

約5000年前とは、考えられないですね。現在と同じように人々が行き来して交流していたのですね。

大型建物は、集会所や地方から来た方の宿泊所だったのでしょうか?

稲荷塚古墳は、どうして八角形にしたのでしょうかね? 丸や四角のほうが、工事もやりやすいのに。

被葬者はこのあたりの特別なトップだったので、従った人たちが全国で15例ほどしかない八角墳にして葬ったのでしょう。

縄文ロード②も楽しみになりました。

 

 


ーウォークの様子ー  写真をクリックで説明を見ることができます。

 

 

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●稲荷塚古墳と奥州古道   

稲荷塚古墳(いなりづかこふん)は、東京都多摩市百草にある、古墳時代後期(7世紀前半)の古墳。

東京都指定文化財(史跡)に指定されている。

 

江戸時代は稲荷塚古墳の東側に資福院という寺院があったが、明治初年に神仏分離令などの廃仏毀釈により、

墳丘上に恋路稲荷神社という稲荷神社が建てられた。

その際に古墳上部が著しく削平され、天井石もほとんど取り去られて、遺跡とその周囲はかなり改変をうけた。

石室も盗掘され、遺物なども持ち去られたと伝えられる。

 

1980年代から1990年代前半にかけて行われた再調査の結果、従来は東日本では確認されていなかった

八角墳であることが判明した。

築造時期は7世紀前半(古墳時代後期)と推測されている。石室は既に盗掘されていたため被葬者は不明である。

 

稲荷塚古墳の全長は38メートルで周囲には幅2メートルの周溝がある。

墳丘の全長は34メートルで2段構造になっている。高さは4メートルほどあったと思われるが、

恋路稲荷神社を建てる際に2段目が削られ、現在は半分ほどになっている。

 

石室の全長は約7.7メートルで、羨道部(長さ約1.6メートル、幅1.2メートル)、前室(長さ約2.3メートル、

幅1.7メートル)、玄室(長さ約3.8メートル、幅3メートル)の3室からなる横穴式石室である。

石室は凝灰岩の切石を組み合わせて積み上げられた構造で、玄室の奥壁には高さ1.6メートル、

幅1.2メートルの一枚石が使用され、玄室と前室の間には高さ1.7メートルの門柱石など巨大な石が

使用されている。

前室と玄室の壁は三味線の胴のようにカーブしており、胴張複室構造(子宮のような形)と呼ばれる

精巧な技術で造られており、古墳の構造から朝鮮半島からの渡来人の技術によって築造されたと推定されている。

 

石室の床にはベンガラ(酸化鉄)と呼ばれる赤色の粉が撒かれており、

その上に円礫と呼ばれる握りこぶし程の石が敷石として散りばめてある。

 

日本全国でおよそ15万基造られた古墳のうち、八角墳は15例ほどしかない。

 

現状は直径20m・高さ2mほどの円墳で、墳頂には恋路稲荷神社が建つ。石室は埋め戻されているが、

ブロック舗装によって石室の位置がわかるようになっている。