~野津田上ノ原の人工窪地形と烽火台を探る~
■集 合:★五反田バス停で10時15分合流
❶小田急多摩線「多摩センター駅」西口改札前に午前9時30分集合
❷小田急線「鶴川駅」改札口前に9時45分集合
■解 散:古代東海道・試掘地点 〔15:30解散〕
❶野津田公園~五反田バス停
❷華厳院坂古道遺構~野津田車庫前バス停
■ガイド:宮田太郎 団長(古街道研究家、歴史古街道団・代表)
■参加者:36名
【内容】
町田市の野津田公園東側には、古代東海道と思われる地中の遺構 (硬化層)がかつて湧水槽工事の際に出現していました。当地には今でも大きな半人工的な窪地形が約600m以上残存 (窪地幅40m以上)しています。その中であれば10m以上の幅の官道も十分に通れたはずです。
国分寺の東山道武蔵路は330mで国の指定史跡になりましたが、その延長線がこの丘に続くと推定 (府中以南は古代東海道)。 またかつて試掘も数回実施され、推定古代東海道の道路硬化面も検出されていますが、隣接地では鎌倉街道上ノ道の本路跡の大型道路遺構が発掘で見つかっています (野津田上の原遺跡)、当地は正に古代・中世古街道が集まる極めて重要な丘だと考えています。
あらためて今、皆さんと探索してみたいと思います。
【コース】
五反田バス停(集合10:15)→五反田の古代東海道遺構・敷地空間→小野路川→野津田公園東第一駐車場脇の遺構→受付業務(団員・一般、資料配布)と資料の説明→綾部原台地→蜂火台推定・飛尾山→飛尾山の隣の山頂で昼食(12:25~13:15)→鎌倉古道跡(上ノ道)→中世軍馬牧跡→上の原遺跡→推定・古代東海道→華厳院坂の古道遺構→古代東海道・試掘地点跡付近で解散(解散15:30)
【感想】
早くも桜が満開になりつつあり、暖かい一日で良かったです。
鎌倉古道跡からこもれびの路を通り、炭焼窪までがアップダウンがあり少しつかれました。
小野路公園や綾部原台地には、道路遺構やのろし台、馬牧跡、古戦場跡などいろいろな遺跡があり散策していてさらに興味がわきました。いろいろな施設等を作るのに地形的にも適していたのでしよう。
一つ、「鎌倉古道・歴史遺産の会」の"鎌倉古道上ノ道"の看板だけでそのほかの看板、案内板がないのが残念です。
野球場横の上の原遺跡の道路遺構は、資料の写真を見ると素晴らしいものです。
アーチェリー場の建設計画もあるみたいですが、調査後、埋め戻したところを一部「見える化」して、看板を立てて皆さんにアピールしてもらいたいと思いました。
ーウォークの様子ー 写真をクリックで説明を見ることができます。
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●小野路川
小野路川は、鶴見川の支流で、町田市小野路町あたりに源を発し、野津田公園の横を通って、鶴見川の大蔵橋の近くで、鶴見川に合流する川です。
●綾部原
綾部原エリアは多摩丘陵では珍しい台地だそうです。だ。
弥生土器の流れを汲む土師器(はじき)が出土したり、古戦場になったことがある等、歴史が古い地域の様です。
綾部原トンネル
「綾部原の台地」を貫いて平成17年(2005)3月26日に造られ開通した「綾部原トンネル」トンネルは全長410m、トンネル部分以外も含めると全長730m、片側2車線、歩道も幅3.5mとゆったりめに造られている。事業費約110億円をかけたそうである。
このトンネルの完成したことで野津田町内で約300 mにわたって新道が開通し、距離の短縮と周辺道路の混雑緩和が図られました。
●上の原遺跡
1991年10月から1995年8月迄の遺跡の発掘調査の結果、縄文時代から古墳時代、古代、中世及び近世にわたる複合遺跡であることが確認されています。
縄文時代では中期から後期にかけての竪穴式住居跡、敷石住居跡、環礫方形配石遺構、後期の土壙墓群等が確認されました。古墳時代から奈良時代のものとして住居跡が、そして中世以降の道路状遺構5本と溝状遺構2本に炭焼窯跡が確認調査されています。
中世の道路状遺構として遺跡の調査区域内を北西から南東に掘割状の遺構が検出され全長で約200メートル、北端の台地の端の部分では最大幅12メートル、深さ4.5メートルを測るV字状の深掘割遺構であるといいます。
これだけ大きな掘割遺構は他に類例が無く、幅だけをみても国分寺市で発見された東山道武蔵路と同じ規模があります。
しかしこの遺構は南に向かうにつれて幅が細くなり、遺跡調査区内の南端では幅が4メートルとなっているそうです。
この遺構では掘割の底部に深さ10センチメートル前後、径20~30センチメートル前後の円形または長径40~80センチメートル、短径20~40センチメートル前後の楕円形を呈した「ピット状円形小穴列」、「楕円形連続土坑」、「波板状凹凸面」などと呼ばれる道の進行方向に沿って連続する穴の列が検出されています。
これらの小穴列は他の古代から中世にかけての道路状遺構などで検出例が多く見られます。穴の間隔が人の歩幅に近いことなどや当遺跡で確認されている「テラス状削段遺構」などと併せて、物資輸送における工夫と考えられているようですが、はっきりしたことはわかっていないそうです。
●蜂火台推定・飛尾山
古代の烽火台跡(飛尾、飛平、焼辺)
古代の東海道が存在したならばそれに沿って、中国の唐の制度にならった古代の烽火台(とぶひ=火を高く上げて次の中継地から目的地へとつないでいく施設)が
併設されていた可能性もあり、ここに続く中継地の考えられる南方の野津田上ノ原の高台には 「飛尾」「飛平」などの地名も残っています。
●華厳院坂の古道遺構
華厳院という寺の西側にある坂道にあり、鎌倉の切通しに似た迫力ある雰囲気が今に残る「古代東海道」と「鎌倉街道上ノ道」の掘割状遺構があり、河井さんのご協力のもと、「鎌倉古道・歴史遺産の会」が整理保全活動をしています。
この掘割状遺構を平成11年(1999)に東京都教育委員会にる発掘調査が行われていることを知りました。
この調査は掘割状遺構がある坂の上と、坂の中間、坂を下った緩斜面の平場の三ヶ所のトレンチが実施されています。この三ヶ所のいずれのトレンチからも硬化面が確認されていて、特に掘割状の中間のトレンチでは現地表面から1.5メートルが流土で更に地山面までは5メートルにも及んでいたそうです。
この中間トレンチの下層部の断面では6面の硬化面が確認されていて野津田上の原遺跡のものとよく似ていたといいます。
出土遺物は坂の一番下のトレンチから15~16世紀頃の板碑片が見つかっているようです。
これら調査の結果から野津田上の原遺跡と繋がる道路遺構とみてほぼ間違いないものだということでした。
華厳院西の舗装された現在の道と、平行して西側にある掘割状遺構とを比べて見ることができます。
鎌倉街道は馬2頭がやっとすれ違えるほどの幅員と考えられてきていましたが、近年確認されている遺構や考古学調査などにより発掘された遺構などから、
狭くても3メートルで平均して4~5メートルの幅員に推定されます。
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