落ち葉舞う、初冬の多摩よこやまの道を歩く
■集 合:小田急多摩線「多摩センター駅」西口改札口前 10:00
■解 散:京王バス停「豊ヶ丘4丁目(貝取交番前)」付近 13:00
■参加費:団員・一般 500 円/人 (保険料、資料代共)
■ガイド:京都純太郎 (団員)
■参加者:19名
【内 容】
紅葉も終りかけた初冬の季節に、晴天であれば白い衣装を着た富士山が望める、風情のある多摩よこやまの道を歩いてみませんか。
今回は、多摩センター駅を出発した後、白山神社に参拝し、多摩中央公園にある旧富澤家住宅の前を通ります。
それから南多摩尾根幹線道路(尾根幹)に架かる「Y字橋」から多摩よこやまの道に入ります。
途中、石仏群にお参りし、南北に走る奥州古道(中尾道)を探索します。
一本杉公園で休息の後、東へ進み、妙櫻寺の脇の鎌倉街道(上ノ道)と交叉します。
再び尾根幹を渡って住宅地に入り、貝取第6公園を経由して豊ヶ丘 4 丁目のバス停まで歩きます。
【コース】 (歩行距離約 6.5 ㎞)
小田急多摩線「多摩センター駅」西口改札口前 (10:00 集合)~落合白山神社~旧富澤家住宅~いちょう橋~奈良原公園~Y字橋~古戦場伝説地~中坂公園~石仏群、奥州古道(中尾道)~一本杉公園(休憩)~妙櫻寺(鎌倉街道・上ノ道跡)~シラカシの大木~貝取第6公園~こぶし館前~「豊ヶ丘 4 丁目(貝取交番前)」バス停付近(13:00 解散) ~多摩センター駅バス停
【感 想】
今季一番の寒さの中、たくさんの方が集合してくれました。小雨もぱらつく中、活動をどうするか迷いましたが、事務局長・ガイド・役員で相談の上、実施することにしました。
一時雨で傘をさすこともありましたが、次第に回復して昼近くには、太陽も出ました。
いちょうは散っていましたが、メタセコイア並木の紅葉がきれいでした。
宝野公園 富士見通りでの富士山は、見えませんでしたが、桜並木があり春に来て見たくなりました。
Y字橋を渡り「多摩よこやまの道」へ入り、古戦場伝説地、石仏群、奥州古道(中尾道)、万葉歌碑、鎌倉街道・上ノ道跡と初冬のよこやまの道を満喫出来ました。
ご参加の皆様、ありがとうございました。
ーウォークの様子ー
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●白山神社(落合)
落合白山神社は、多摩市落合にある神社です。
落合白山神社の創建年代は不詳ですが、当社の神体は平安時代(1180)頃のものであるともいい、八王子代官小宮山八兵衛助為と東福寺法印円能坊とが石川県の白山比咩神社を元和4年(1618)に勧請して創建したといいます。
江戸時代には、落合村(小名:青木葉、なら原、上ノ根、山王下、臺ノ下、中澤、二段田、高岸、龍田、長坂、唐木田)の鎮守社となっており、社領10石の御朱印状を拝領していたといいます。
祭神 伊弉諾命、伊弉冉命
〇自然石「土公神」
「公神(どくしん・どこうしん)とは、陰陽道における神の一人。土をつかさどるとされ、仏教における「堅牢地神」(けんろうちしん=地天)と同体とされる。
地域によっては土公様(どこうさま)とも呼ばれ、仏教における普賢菩薩を本地とするとされる。とのことです。
当初は、白山神社の裏山の頂上付近にあったが、明治期に移動、その後多摩ニュータウン建設の区画整理のため現在地に移動された。
●旧富澤家住宅
本建物は、18世紀後半に建築された連光寺の名主の家を移築したものです。
明治天皇などが行幸した際には御小休所として利用されたことでも有名です。現在は、多摩市の文化財として保護公開されています。建物内は、一部のスペースを除き見学することができます。丘の上プラザからは、徒歩5~6分のところにあります。(多摩中央公園内)
●宝野公園 富士見通り
多摩市にある「宝野公園」は広場を挟むように桜並木がある公園です。
手入れが行き届いた芝生広場ではレジャーシートを広げ、お花見を楽しむ人の姿も見られます。
園内にある「富士見通り」は天気のよい日には富士山を拝めることからその名がつきました。
まさに富士山を見るためにつくられた公園ですね。
変わった形の東屋から桜の木を両側に200mほど連ね、その先に富士山が見えます。
●Y字橋
この人道橋は、公園側では二本の舗道なのだが橋の中央部分でひとつにまとまり、南側では一本の舗道になる。
ちょうどアルファベットの「Y」の文字を連想してもらえばいい。橋の名も「Y字橋」というらしい。
この「Y字橋」を渡って尾根幹線の南側へ渡るとすでに町田市下小山田町との市境が近く、下小山田町に位置するゴルフコースが眼前に迫っている。
●古戦場伝説と勝負塚
<伝説豊かな山里>
昭和30年代、この付近で刀傷を負った鎌倉時代の人間の頭蓋骨が発見され、話題を呼びました。
骨は付近一帯に昔から古戦場の伝説や古道があることから、元弘三年(1333)の新田義貞軍による鎌倉攻めの際のどちらかの犠牲者(比較的身分の高い武将)ではないかと言われております。
近くにはこのほか、供養塚、勝負塚、大将塚など幾つかの塚や、小山田小太郎隠れ穴、ひうち池などの伝説地が伝えられています。
<新田義貞激戦の地>
鎌倉幕府滅亡時の戦いを記した軍記物語の太平記や梅松論には、新田義貞軍は苦戦を強いられた分倍河原、関戸の合戦に相次いで勝利したあと、「関戸にて一日逗留ありて軍勢の着到つけられけるに六十万七千騎とぞ記されけり。・・・ここにて軍勢を三手に別け・・・云々」とあり、
現在の多摩市役所付近(鐘掛け松の伝承地)で休憩して一夜を明かし、ここで初めて大軍勢に膨れあがったこと、軍議を開いて翌早朝からの進攻を三手に分けたことがわかります。
そのうちの右翼隊(西ルート)が小山田の現在地付近に進み、尾根の高台で、それを迎えた幕府軍と激戦になったことが想像されます。
●石仏群、奥州古道(中尾道)
13体の石仏です。江戸時代のものだそうです。これは多摩ニュータウンの開発によって行き場を失った江戸時代の石仏が、心ある方々の手でここに集められ祭られているものです。
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