講演テーマ 「吾妻鏡にみる権力と抗争の舞台裏」
【会 場】多摩市パルテノン多摩 4階会議室1 14時~15時50分
【講 師】加藤正昭氏 (歴散加藤塾 塾長 歴史古街道団・団員)
【参加費】500円 89名参加
鎌倉の鶴岡八幡宮。ここで、毎年行われている伝統行事「流鏑馬」は、“いざ鎌倉”に備え武芸に、はげんだ御家人の姿を現在に伝えています。頼朝が築いた、幕府と御家人との強い絆が鎌倉時代を支えたのです。
頼朝の死後、御家人たちによる集団指導体制が『13人の合議制』です。彼らは激しい内部抗争を繰り広げ、ついに権力を手中に収めたのが、13人中もっとも若かった北条義時です。
吾妻鏡にはどう描かれているか皆さんと勉強していきます。
吾妻鏡を約25年にわたり研究してきた加藤塾長が、ドラマの主だった出演者である、十三人
(北条時政・北条義時・大江広元・三善善信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政)の御家人のエピソードを吾妻鏡現代語を引用し、わかりやすく紹介しました。
今年の大河ドラマが「鎌倉殿の13人」なので、鎌倉は人気があり、たくさんの方々が講演会に来てくれました。ソーシャルディスタンスを考慮して机1台に椅子2台にして、残りは外周において何とか開催することが出来ました。
鎌倉と吾妻鏡の大家である講師加藤塾長による13人の御家人のわかりやすい説明でした。
大江広元は「中原性」で70歳近くで「大江性」に 等、知らないこともたくさんあり勉強になりました。講演会の終盤の鎧、弓矢、畠山重忠のお話も良かったです。
ドラマでは、まだ全員出て来ていないので終盤の10月頃に、また講演会を開催してもらいたいです。
◆宿老13人の合議制◆
源頼朝が死去すると嫡男の頼家は頼朝の家督を相続します。
頼家の政治手腕に不安を抱いた宿老たちは、頼家が直接訴訟を裁断することを停止させ、宿老十三人による合議によって裁判することを決定しています。
合議制の構成員のうち、4人は京都出身の官僚。8人は経験豊かな御家人。もう一人は当時38歳だったという若い北条義時。
講演会の資料より簡単に十三人の御家人を紹介
名前の後の回数は吾妻鏡に出てきた数(講師の加藤塾長調べ)
1.北条時政(1138~1215) 161回:政子の父親で頼朝の舅。
2.北条義時(1163~1224) 262回:政子の弟で二代執権となる。
3.大江広元(1148~1225) 295回:始めの頃は「中原性」で70歳近くで朝廷に奉上して「大江性」に。
4.三善康信(1140~1121) 82回:母が頼朝の乳母の妹。
5.中原親能(1143~1209) 61回:政所の事務長的存在
6.三浦介義澄(1127~1200) 69回:三浦義明の次男で三浦党の党首
7.八田右衛門尉知家(1142~1218) 64回:下野国宇都宮氏の分家。
8.和田太郎義盛(1147~1213)173回:弓の名人で初代「侍所別当」
9.比企四郎能員(不詳~1203) 51回:源頼家の乳母夫となり、娘の若狭局が頼家の妾となり一幡を産んだ。
10.藤九郎盛長(1135~1200) 53回:安達藤九郎盛長と云われている。頼朝が伊豆国の流人の頃からの側近。
11.足立右馬弁遠元(不詳~不詳) 47回:武蔵国足立郡を本拠とした豪族。
12.梶原平三景時(1140~1200) 123回:石橋山の戦いで平家方にありながら頼朝を助けたという武将。
13.主計弁藤原行政(不詳~不詳) 68回:二階堂氏の祖で、永福寺が二階建てに見え行政が邸宅を構えたことに由来。
ー講演会の様子ー
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