宮田団長ウォーク:“古代甲州道に沿う縄文ロード①


大栗川に面した集落遺跡相


「聖蹟桜ケ丘駅」西口改札を出て右手の広場に10時 集合  ガイドの宮田団長による経路と資料の説明
「聖蹟桜ケ丘駅」西口改札を出て右手の広場に10時 集合 ガイドの宮田団長による経路と資料の説明

3月2日(土)のウォーキングレポートです。 毛呂山町の国史跡「鎌倉街道」を歩こう! 宿場と街道の歴史価値と空間をつかみ取る

■集 合:東武東上線「坂戸駅」改札口10:30

■解 散:東武越生線「川角駅」15:50

■ガイド:毛呂山町歴史民俗資料館 佐藤副館長

■参加者:36名

 

【内 容】埼玉県毛呂山町の鎌倉街道上道は、令和4年11月国の史跡に指定されました。「中世の街道の遺構が良好に保存されているだけでなく、宿場と墓域の空間が残り、街道を解明できる重要な遺跡」として評価されたことが要因です。街道を中心とした国の指定史跡は初めてで、現地を探訪しその歴史的価値と保存活用や次世代への伝え方なども学びます。

 

【コース】東武東上線「坂戸駅」改札口10:30集合 10:42北口発バスで善能寺着10:51~苦林野合戦供養塔・大類古墳群~十社神社~神明台の庚申塔~諏訪社跡と崖下の湧水~堂山下遺跡~延慶の板碑~崇徳寺跡~川角古墳群~大類・川角境の掘割遺構~大類館(集会所:昼食)~毛呂山町歴史民俗資料館~鎌倉街道上道発掘現場~市場・西大久保境の掘割遺構~市場神社~仏坂遺跡の鎌倉街道~川角駅(15:50解散) 【感 想】 朝から冬晴れの良い天気となりました。 毛呂山町の鎌倉街道上道は、ただ道があるだけ国史跡に指定されたわけでないことが、佐藤副館長の丁寧な解説と現地探索によってよくわかりました。道が台地から越辺川に下るところを中心に、台地側には延慶の板碑や崇徳寺跡、時代をさかのぼり古墳時代以来の群集墳、昭和時代まで残っていた湧水上の諏訪社などの信仰の場が多く残っていました。また、台地から下ったところには苦林宿と推定される堂山下遺跡が広がり、越辺川、鎌倉街道、湧水、台地の位置的関係がよく理解できました。 今回もお疲れ様でした! 皆様、またご参加ください!

 

 

■集 合:京王線「聖蹟桜ケ丘駅」西口改札口右手広場 (10:00)

■解 散:愛宕神社前(一次解散 15:25) / 愛宕四丁目バス停(解散 15:50)

■ガイド:宮田 太郎(団長)

 

【内 容】

諏訪湖や八ヶ岳の縄文人たちと多摩丘陵の縄文人たちが、大栗川に沿う「古代甲州道」や「奥州古街道」に沿って集落遺跡を遺し、深く関わっていたことを考えながら、和田東寺方の段丘の遺跡(多摩第二小学校遺跡)から、縄文時代ロングハウスが見つかった。 和田西遺跡までをたどって探索します。

 

【コース】  

京王線「聖蹟桜ケ丘駅」西口改札を出て右手の広場に 10:00 集合~有山集落跡~東寺方橋~東寺方橋緑地~ぐみがした坂~慈眼山 宝泉院~鎌倉裏街道~多摩市総合体育館・自由昼食(11:20~12:20)

~多摩第二小学校遺跡~並木公園(休憩)~並木橋~殿田橋~和田さく公園~庚申塚古墳~後原通り~稲荷塚古墳と奥州古道~地蔵堂~和田西遺跡~愛宕神社前(一次解散 15:25)~愛宕神社~愛宕社跡(古代~中世の烽火台?)~愛宕四丁目バス停(解散 15:50)~永山駅、聖蹟桜ヶ丘駅、多摩センター駅へ

 

【感  想】

多摩第二小学校遺跡や和田西遺跡は、現地に看板等がないので、団長の説明と資料を見て、縄文時代のすごい遺跡ということが分かりました。

約5000年前とは、考えられないですね。現在と同じように人々が行き来して交流していたのですね。

大型建物は、集会所や地方から来た方の宿泊所だったのでしょうか?

稲荷塚古墳は、どうして八角形にしたのでしょうかね? 丸や四角のほうが、工事もやりやすいのに。

被葬者はこのあたりの特別なトップだったので、従った人たちが全国で15例ほどしかない八角墳にして葬ったのでしょう。

縄文ロード②も楽しみになりました。

 

 


ーウォークの様子ー  写真をクリックで説明を見ることができます。

 

 

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●稲荷塚古墳と奥州古道   

稲荷塚古墳(いなりづかこふん)は、東京都多摩市百草にある、古墳時代後期(7世紀前半)の古墳。

東京都指定文化財(史跡)に指定されている。

 

江戸時代は稲荷塚古墳の東側に資福院という寺院があったが、明治初年に神仏分離令などの廃仏毀釈により、

墳丘上に恋路稲荷神社という稲荷神社が建てられた。

その際に古墳上部が著しく削平され、天井石もほとんど取り去られて、遺跡とその周囲はかなり改変をうけた。

石室も盗掘され、遺物なども持ち去られたと伝えられる。

 

1980年代から1990年代前半にかけて行われた再調査の結果、従来は東日本では確認されていなかった

八角墳であることが判明した。

築造時期は7世紀前半(古墳時代後期)と推測されている。石室は既に盗掘されていたため被葬者は不明である。

 

稲荷塚古墳の全長は38メートルで周囲には幅2メートルの周溝がある。

墳丘の全長は34メートルで2段構造になっている。高さは4メートルほどあったと思われるが、

恋路稲荷神社を建てる際に2段目が削られ、現在は半分ほどになっている。

 

石室の全長は約7.7メートルで、羨道部(長さ約1.6メートル、幅1.2メートル)、前室(長さ約2.3メートル、

幅1.7メートル)、玄室(長さ約3.8メートル、幅3メートル)の3室からなる横穴式石室である。

石室は凝灰岩の切石を組み合わせて積み上げられた構造で、玄室の奥壁には高さ1.6メートル、

幅1.2メートルの一枚石が使用され、玄室と前室の間には高さ1.7メートルの門柱石など巨大な石が

使用されている。

前室と玄室の壁は三味線の胴のようにカーブしており、胴張複室構造(子宮のような形)と呼ばれる

精巧な技術で造られており、古墳の構造から朝鮮半島からの渡来人の技術によって築造されたと推定されている。

 

石室の床にはベンガラ(酸化鉄)と呼ばれる赤色の粉が撒かれており、

その上に円礫と呼ばれる握りこぶし程の石が敷石として散りばめてある。

 

日本全国でおよそ15万基造られた古墳のうち、八角墳は15例ほどしかない。

 

現状は直径20m・高さ2mほどの円墳で、墳頂には恋路稲荷神社が建つ。石室は埋め戻されているが、

ブロック舗装によって石室の位置がわかるようになっている。